東方異聞紺珠伝 第六話

数日後。

自分は、もはやこちらに来てから数えるのをやめた朝が来る。こつり、こつり。何の感情もない乾いた音が耳を襲う。その足音が自分の前に止まる。

「地上人。お前に面会の申し入れだ。本来は穢れとの接触を防ぐため面会禁止だが、特別の許可だ、ありがたく思え」

看守の一言に、房がざわめく。自分は、あの海での出来事を思い出す。―依姫さんだろうか―淡い期待を抱き、うなづく。房仲間の玉兎は、口々に不満を漏らす。

「なんで地上人が!」

「地上人だけ許すというのか!」

「月の都の伝統に唾吐く行為だ!」

口々に放たれる怒声が、自分の良心を苛む。だが、喧嘩した看守は冷静に言い放つ。

「はっ…お前ら、本当に頭お花畑だな。今まで私らがやってきた行為を微塵も覚えちゃいねぇ。私らはとっ捕まえた地上人に何してきた?」その言葉に、房が静まり返る。

「そ、そうだ!地上人が無罪放免なわけない!」

「だまし討ちにして処刑するんだ!」「月都万歳!月都万歳!」

途端に玉兎達は掌を返す。その目は、わずかな生存の可能性にぎらついていた。―ここで、良い感情を得られれば、何とか復帰の可能性が―さんざん生命の循環を否定しても逃れえぬ生存本能に、少し共感した。

「地上人さん。わかっているとは思いますが、油断はなさらないでください。ここは、そう―」

「歪んだ場所なのです」それを言い放つ月華の口だけが、妙に目に入る。胸が早鐘を打つ。平静を取り繕い、月華に礼を言う。

「……遅い。地上人を呼びつけるのがそんなに難しいか」背中から冷酷な声がする。振り返ると、自分よりも背が数段高い、威圧感を身にまとった男性が自分を侮蔑の目で見下ろす。

「貴様が、月都拘置所から脱獄した地上人か。屑が」突然、腹部にとてつもない衝撃を受け、後方に吹き飛ばされる。

何とか起き上がろうとする頭を床に押し付けられる。

「誰がその汚い猿面を向けて良いと言った。高貴な月人に塵のような言葉を吐く貴様の頭の位置は永遠に此処だ、体に染み込ませろ」

高圧的な手を掴み、反目する「貴方の目的は、面会であって私をいたぶることではないでしょう?」皮肉を目にたぎらせ、にらみつける。強烈な腹部の痛みをこらえ、冷静に反論する。

「地上人をいたぶるのに理由がいるのか?」その男は心底不思議そうにのたまう。

「誰も路傍の石を蹴るのに文句は言わない。理由なんぞ考えない」 「至って普通のことをしているまでだ。それに良心も、お前の意見も関係ない」今度は、頭を軍靴で蹴り飛ばされる。

―首がちぎれるかと思った―

何とか首がつながっていることを確認すると、目の下、眼窩に痛みがが遅れて発現する。頭にも鈍痛が伝わり、思わず絶叫する。目の前の男が何か言っているのも、月華が何か語調荒く言っているのも分からない。とにかく痛みから解放されたくて、何かを突き付ける男にがくがくとうなづく。男は何か書類を投げつけ、踵を返して消える。意識が薄れ、声の雑踏の中、闇に落ちる。

―海にいる。ここの海ではない。青く、生臭く、有機質な海。海が震えている。いや、自分が波立っている?喧騒が周りから聞こえるのに、自分はその喧騒に浮き、その方向を見ることさえかなわない。水に浮いている、溶けている?自分がどのような状態かさえ分からない。視界が消える。真っ暗になった世界で、耳をつんざく音。自分が、声にならない金切り声を上げ、叫んでいたことにようやく気付く―

目を覚ます。独房の中だった。月華がこちらを見て、声を荒げる。

「なんてことをしたんですか!従軍契約なんて、無事で済むはずありません!」従軍契約?聞いたこともない単語に、背筋が凍る。投げつけられた書類をひったくるように手に取り、紙切れ一枚の契約書に目を通す。そこには一文

―被契約者は、契約者に無期限に全ての能力、人権、その他人的資源の一切を帰属させることを承諾する―

とだけ書いてあった。

「…なんだこれは。」思わず乾いた笑いさえ漏れた。背筋が凍り付く。従軍契約なんて生ぬるい、奴隷、いや、実験動物に対する契約にさえ思えた。書類を持つ手が力を失い、足も体を支えることを拒否し、その場に崩れ倒れる。

「こんな適当な契約書が月の都のやり方か!そうか!路傍の小石には、承諾すらもいらないというわけだな!」体が操られたように天を仰ぐ。目から涙が勝手に零れ落ちる。ああ、もはやこれも自分の所有物ではないのだ。自分という存在が、溶けて、消えて、この腐って歪んだ世界に統合されていく。なんと滑稽なことだろうか。勝手に淡い希望を抱いて。それが裏切られ、虐げられて、同意も得られずに自分を作り変えられる。死を待つ丸太ん棒なんて生ぬるいものじゃなかった。

「俺は……」

「もう何でもなくった。どこにもないんだ」

口がゆがむ。笑い声が漏れる。狂った笑いが、この腐った世界とともに自分を上書きしていく。甲高い金切声のようなノイズと、恐ろしい笑い声が、意識を侵食し、自分を内側から作り替えていく。

「ああ……こんな腐った世界は」「一点の陰りもなく素晴らしい!」

作者メッセージ
ここまでで一応部誌掲載の話は以上となります。おまけに、部誌掲載のあとがきを付して、作者メッセージの代わりとします。どうも、「東方異聞紺珠伝」筆者の鈴木定則です。部誌掲載ということで、先行発表の茶会編と合わせ、冒頭部分の掲載となります。全部書いて掲載したら真面目に文庫本1冊では収まらないので、悩んでおります。それはさておき、茶会編と比べまぁ陰鬱な冒頭部分ですよね、異世界系小説の中ではかなり独特なテイストじゃないかと自負しています。特に、最後の月人が折檻してくるところなんて割と私もマジでこいつ後でどうしてくれようと思うほどでした。モデルはラインハルト・ハイドリヒ。ナチの狂犬です。モブなのにキャラ濃いなと思われるかもしれませんが、うっすらわかるように地球人の対応はこれくらいが標準だったりします。わぁ絶対この異世界行きたくない。「ぼくがかんがえたさいていのこっか」要素でナチスが外されることを私は見たことがありません。さすがにカットされましたが、当初案はもっと死ぬほど過激で、伏字要素のオンパレードでチャタレイ夫人再びかみたいなことになっていました。なので表現はいろいろとナーフしていますけど、なお余りある差別意識ですよ。終わってます。そんなんだからあなたたち異形の生物に襲われる羽目にn……ネタバレはこの辺にして。まぁすごく陰鬱な文章なんですが、非常に理解の拒絶、排除の描写に現実世界が沿ってきてぞっとしてます。小説を通じた意見の発信なんて考えてもいませんでしたが、奇しくもそうなってしまいました。これからの時代どうなるのか、良くも悪くも目が離せません。最後に、私の個人サイト「日日是好日ver.html」の宣伝を。定期的にこの小説の続きを掲載する予定です。現在は部誌版の方が早いですが、いち早く続きを見たい人は、サイトを時々見に来てほしいです