東方異聞紺珠伝 第九話

目が覚める。起き上がろうとして身体を起こすそばから、がちん、と何かに額をしたたかに打ち付ける。そこでようやく自分がどこにいるのかを思い出す。ベッドの上からは月鈴の穏やかな寝息が聞こえる。部屋を見渡しても、他の玉兎たちも寝静まっている。穏やかな眠りを邪魔しても悪かろうと思い、ベッドの下から這い出て、部屋を後にする。

訓練所もまだ目覚め切っていない朝の静寂。射撃場には相変わらず実包、つまり火薬入りの弾丸が散らばっているし、昨日の月人の男が怒号を飛ばせばそれはそれはよく聞こえるだろう奇妙で背筋に寒気が走るような静寂。銃を携えて散歩のようにだらだらと訓練所を歩き回る。この後は月鈴の起床を待って、図書室で彼女の勉強に付き添う。通信規約は見る限りさっぱりな自分だが、盗み見した戦術論に関しては妙に心惹かれた。あれを今日は見てみようか。そんなことを考えていた。

バタバタとうるさく、入口のあたりから音がする。しまった、見とがめられてはかなわない。とっさにその場を逃げ出す。

「待て!訓練生!こちらは月都防衛軍の正式部隊だ!逃げれば抗命罪で処罰されるぞ!」

存在そのものが自身のものでない自分にとって、この場合責任を負うのは誰なのだろうか、などというのんきな考えが飛び出す。流石に弾丸こそ飛んでは来ないが、逃げる背中に張り付くように気配が追いかけてくる。着ているシャツの首筋を捕まれる。

「この訓練生、手間をかけさせやがって。まあいい。月都の栄光のため、訓練生の貴様の奉公の機会が回ってきたんだ。ありがたく思え」

幸か不幸か、自分を捕まえている何者かに素性は割れていないようだ。もし地上人と知れたら、射殺されても文句は言えないだろう。沈黙を貫き、動揺を悟られないように努める。放り投げられるよう車両に押し込まれる。機関部から甲高い鳴動が起こったかと思う瞬間、車両は音という概念を何処かに置き忘れてきたかのように静かにどこかへと走り出す。

放り込まれた車内には玉兎が何人か、窮屈そうにお互いに身を寄せ合っている。自分の顔に垂れてくる彼女たちの耳から覗く顔には一様に隠しきれない不安が書いてある。運よく、自分を捕らえた何者かは他の車両に乗り込んでいった。沈黙。彼女たちの知っているだろう車両の行き先がまともなところでないことは明らかだった。

車両が止まる。開口部がいきなり開き、とっとと降りろと怒鳴られる。降りた瞬間、周りの玉兎たちからざわめきが聞こえてくる。

「なぜ地上人が……?」「今回の作戦は穢れの汚染が酷いからじゃない?」

ざわめきが大きくなり、一部の玉兎はそわそわとしはじめる。

「静粛にしろ!今回の作戦は月都防衛軍司令長官綿月依姫様直々に指揮なさる一大作戦である!不手際をしてみせろ、この小隊共々連座で再教育は免れんぞ!」

怒号の中に聞こえる、聴きなじみのある名前。月の都で司令官をしている、というのは嘘ではなかったようだ。もしここで依姫の名前を出せば、とも思ったがこのざわついた局面では印籠を出したところで意味はないだろう。止めておくことにした。怒号に恐れをなした玉兎たちが自分を引きずり出し、作戦のため部隊長たちが集まっていると思しき集団の前に突き出す。部隊長らしき彼女たちは自分を見るなり露骨に嫌悪感を陶器のように冷ややかな顔に表す。一言二言の協議の後に、自分の足元に布切れを放り投げる。

「協議の結果、特例としてお前を月都防衛軍指揮下の特認兵とすることにした。さっさと腕章をつけろ」

放り投げられた腕章を拾い上げる。彼女たちの身に着けている深い紺碧に、墨を落としたようなにじんだ黒。まるでお前はこの黒だと言わんばかりだ。右腕に通したそれを針で留める。何の感傷もない。ただ、お前は一生地上人だという呪いを手を変え品を変え押し付けるのにはいい加減胃もたれがする。にわかにざわめきが大きくなる。玉兎たちの視線が一点に集まる。彼女たちの視線の先には、依姫がいた。あの日見た片肩に掛けた赤いスカートはそのままに、仕立てのよさそうな白いシャツを着ている。彼女から放たれる圧倒的な闘気は素人の自分の背筋を凍らせるに十分だった。思わず喉元をさする。見つかればまた彼女は自分をどこかに突き出すのか、それとも解放してくれるのか、ひりつくような緊張感が首筋のあたりに重く堆積する。

「……そこへ直れ」

彼女のその一言で、先ほどまでのざわめきは一気にしぼみ、耳が痛くなるほどの静寂が訪れる。自分に向かっていた玉兎たちも、自分でさえもあっけにとられて彼女を見つめるばかりだ。依姫がこちらをねめつけるように切れ長の目で睨むと、彼女たちは先ほどまでの態度はどこへやら、あたふたと依姫のもとへ駆け寄り報告を始める。

「報告一、予定されていた人員の集合は順調です。臨時調査分隊は総員、予備分隊及び回収部隊の集合率は十分の八。報告二、目標地点に動きはありません。激しく損壊していますが、作戦の遂行に支障はないかと」

玉兎たちの報告、激しく損壊している建物という言葉にふと、拘置所を思い出す。血か非常灯で照らされただけかわからない壁の赤。必死の命乞い。白い独房。あの場所にまた行ったとて、残っているのは死体と廃墟だけではないのか、そんな、もし聞かれれば首が飛びそうな不謹慎な考えが浮かんでは消えていく。

「直ちに作戦を始めるように。臨時調査分隊は穢れへの対策を最大限に取りなさい。予備分隊以下の後方部隊は結集を待たず作戦に従事するように」

依姫の指揮が飛ぶ。命令を受諾した部隊長らしき彼女らは一斉に散開し、各々の部隊を集合させ始める。残された自分は押し付け合いの末に、臨時調査分隊に振り分けられた。正式部隊がこのような有様だ。果たしてまともに作戦が進行できるのか、はなはだ疑問だと小さく嘆息する。その時、背中に突き付けられた固い感触。

「地上人。銃を捨てろ。確かに特認兵とは言ったが、お前が銃を私たちに向けないと確証が持てないからな」

どうやら自分たちの行いがまともな人間扱いではないことを自覚はしていたらしい。銃を放り投げ、両手を上げる。これで多少は背中をハチの巣にされる確率は減っただろうか。臨時調査分隊の先頭に立ち、いまだ定かではない目的地に歩みを進める。

「目的地に到着。これより先日の不明な理由によって破壊された旧月都拘置所の調査を始める」背中越しに聞こえる声。分隊長あたりが指令を出しているのだろうか。不明な理由、という言葉にすべてが詰まっているではないか。あまつさえ襲撃を受けた時の生き残りを牢にぶち込み、挙句勤務していただけで腑抜けだの好き勝手言うから、分かるものも分からないではないか。目の前にそびえる建物、いや、徹底的な破壊を受けた廃墟はあの日の素寒貧とした雰囲気から、血なまぐさい事故か、でなければ戦場の空気に染まりあがってしまったように思えた。飴細工のようにゆがんだ扉をすり抜け、くぐるようにして拘置所内へ。一寸先も見えない暗闇と、定まらない足元。歩みを進めるたびに、細いもの、太いもの、様々な何かを踏みつける。靴に染み出す嫌な冷たさを、焦りとして片づけることに難儀する。まだ二の足を踏んでいるらしい分隊員たちは、青い顔を見合わせて互いに突入役を押し付けあっている。訓練生が言った御大層な宣誓も、ここでは自分を盾に誰が貧乏くじを引くかという全く卑近な問題に還元されてしまったらしい。

「と、特認兵!お前に名誉ある偵察を命じる!完遂すれば勲八等による月都勲章は間違いない!」分隊員の誰か一人が言ったらしい言葉がむなしく響く。勲八等、月都勲章、そんなものに何の価値がある?ペットを手名付けておく首輪にしてはいささか理解に苦しむほど高潔だ。

「勲八等の誉れを訓練部隊が独占しては正式部隊の皆様に申し訳が立ちません」振り返った暗闇に恭しく申し上げてやる。銃声。暗闇の向こうがざわつく。暗闇を切り裂いて、銃口が飛び出てくる。

「くそっ!地上人、お前は肉壁だ!さっさと歩け!」銃口の向こうの彼女たちの目は、傲慢な余裕が消えうせ、息も荒い。

「早く行け!撃つぞ!」引き金にかかった指ががくがくと震えている。風穴を開けられるのは御免だ。背後の暗闇に向けて、向きかえってつま先を押し付ける。何かがまた触れる。腐った果実がつぶれるような感触。もう一つのつま先もやはりその隣で何かに触れる。丸く、重い何かが引っかかっている。暗闇の中で正体がわからないことがこの状況を安定させる唯一の頼み綱だった。

暗闇に目が慣れ始める。暗闇によってかろうじて保たれていた平静が暴かれる予感に、首筋にしびれが走る。浮かび上がってくる人の形。背中に張り付く冷たい感触から逃げるように、暗闇をこぎ始める。床を擦る靴底の音ばかりが開け始めのこの暗闇のようにまとわりつく。

ごすり、どかり。足にまとわりつく肉の塊をその都度脇によける。目を前に向ければ、自分が歩いたあの冷たい廊下が人の形によってカーペットが敷かれている。後ろに続く気配は一塊に、自分の後ろで纏まっている。廊下の半分を埋め尽くす巨体と、そこから伸びるいくつか肉団子を貫いた細い脚部が行く手を遮る。周りに散らばる人の形を横に押し出し、団子から垂れ下がる短冊飾りをくぐり抜ける。ぼとん、と団子から生える饅頭が音を立てる。光を失った濁る宝石が、こちらを覗く。がちん、と音がする。後ろの気配から突き付けられる銃口が自分の脳天に押し付けられている。

「も、もう限界だ。私たちは作戦の中断を宣言する。現時点をもって、臨時調査分隊は特認兵に委任、私たちは撤退する!」ぱん、という乾いた音。即座に全員が身体をまさぐる。誰も倒れない。硝煙を立ち昇らせる銃口は、明後日の方向を向いていたらしい。分隊員はじりじりと下がり始める。かすかな揺れ。歩幅にして十個ほど離れたところで、彼らは止まる。揺れは止まらない。むしろ、大きくなる。

「銃構えっ!」分隊長がおもむろに叫ぶ。誰も彼も、突然の指示に慌てふためく。銃口はあちらこちらに向く。刹那の後に、全ての銃口の真円が自分に向かう。まずい。そう直感するが、身体は身じろぎさえしない。ただ、銃口から飛び出した塊が自分の体を蓮根にするのを待っているばかりだ。揺れが止まる。直上--

ばぎん、と天井が悲鳴を上げる音ともに、巨体がずり落ちてくる。

「っは!?放てっ!」銃声が重なり、ぱりぱりと繋がった音を立てる。壁が弾をはじくぱちぱちという音が跳ね出る。

「撃て!撃てぇ!殺せ!」怒号に反して、破裂音は一切聞こえない。ただ、ガチャガチャと手元の定まらない音がする。

ぶあん、という風切り音。爆発が起こった。正体の定まらない重い塊がぶつかる。吹き飛ばされた勢いで転がる。向き直る。足があった。凪がれた綺麗な切断面が、まるで空き地のように巨体の周りを覆っている。巨体はずりずりと音を立ててこちらに寄って来る。足は次々と倒れていく。自分にぶつかった塊がうめく。

「足が……痺れる、寒い、死にたくない……」その塊には、腰から下がない。真っ白になった。その虫の息の玉兎を押し飛ばし、わき目も振らず、もつれているかどうかも分からないような足で床一面にあふれる死体を踏みつけにし、蹴り飛ばし、とにかく廊下の突き当りを右に左に走り回る。運良く見つけた外壁の破砕孔からはい出し、とにかく見覚えのある道を走り抜ける。あの日、げっかと走り抜けたみち。ぎょくとたちが集まってきたあのところへ。

自分の目の前に、一団が現れる。何か言っているらしいが、止まりきることもできずそのままぶつかる。ぶつかった相手は、大げさなほどによろけ、倒れこむ。

「……ょうさ分隊の特認兵だ!」「……があった!報告しろ!」自分の周りを囲む一団が語気を強めているらしい。頭の奥がキンキンと甲高く鳴り続け、まったく聞き取れない。一団の間から押し分けるように、だれか進み出てくる。手にした手帳には「何が起きたのかの報告はできますか?」丸みを帯びた、しかし几帳面な文字が並ぶ。手帳から、腕をたどって顔を上げる。困惑がにじむ開かれた瞳孔と、平静たらんと無理やり抑え込んだ気色がありありと浮かぶ口元……依姫だった。あっぷあっぷの息を吐き切り、大きく吸い込む。脳裏に浮かぶのは月鈴の「大きく息を吸って。はい、そう」という言葉。少しばかり明晰さを取り戻した意識で、報告を行う。

「月都拘置所に進出した臨時調査部隊は攻撃を受け、少なくとも一人が上下半身分離の重症、正体不明の巨大な生物の出現の後に起きました」報告の言葉が進むごとに、彼女の眼には険しさが増していく。自分の腕章から、血液のべったりついたカッターシャツまでを一瞥する目には疑念が満ちていた。

「報告を了解しました。現時点をもって臨時調査分隊は全滅とみなします。予備分隊及び回収部隊は直ちに集結。爾後は二次作戦の展開のため撤退を進めなさい。臨時調査分隊の生存者は現場証言、および見分のため月都防衛軍軍事司令長官の名のもとに保護します」その宣言の保護が、どうにも自分には額面通りに受け取れないと感じたのは、ただの意地悪さだろうか。彼女の言う保護とは「決まっていること」で、さらなる地獄へ沈める言い訳に過ぎないのではないかという疑いは留まりを知らない。

作者メッセージ
ようやく(?)戦闘らしい戦闘が起きました。いや主人公肉壁にされてますけどっていう文句は無しでお願いします。とある銃声のせいで彼女たちはかなり焦っていたので。まぁそれにしても訓練生盾にする正式部隊ってなんだよって話ですよね!胸糞。