東方異聞紺珠伝 第八話

窓の外からは、しとしとと、永遠に止まないような雨が音を立てている。先程まで差した一瞬の光は、また雲間に姿を消し、埃っぽい図書室はまた薄暗闇に包まれる。取った手の、女性らしいしなやかな手触り。

「そろそろ、始めましょうか。いつまでも握手しているのも心地良いですが、終わらないので」月鈴の苦笑い。眉が少し落ち、口は少しばかり笑っている。

「……そうですね」自分は、背負っていた銃を引いた椅子に立てかけ、彼女の隣に座る。彼女が開いているのは、分厚い通信規約一覧。発光信号、旗信号、腕木通信、平文。彼女の目線は同じところを何回か行き来する。止まっては少しばかりのため息。くるくる回した彼女の赤みが入った紫髪が自分を撫でる。自分はちんぷんかんぷんなので、立てかけていた銃を拾い上げ、照門と照星を覗き込む。照星の先の薄暗い空に狙いを定める。このまま、ばん、という言葉で飛び出た弾丸があの薄暗い雲をぶち抜き、晴れ間を取り戻せばいいのに。そんな少しばかりの悪戯心が心を満たす。

「……あら、もう銃を触ったんですか?それとも経験が?初めてお会いした時には、銃どころか包丁も持ってなさそうな優しい空気だったのに、今は長年の友に再会したような雰囲気ですね」月鈴がいたずらっぽく肩をおさえてくる。

「少し肩に力が入りすぎています。このまま撃つと、弾が横に振れて的の隣から土煙が上がっちゃいます」彼女の言葉に目を見開く。

「なんで分かるんだ?その、まああまり褒められたことじゃないが、撃った時に確かに狙いが横にそれたんだ」つい朝の記憶。右に左に揺れ動いた照準。土煙。

「これでも、そうですね、あなた達の言葉で言うならプロフェッショナルですからね!」そう快活に言い放った声に、少しばかりおかしくって笑いを漏らす。ひどいですよ!、と指で突かれ、ごめんなさい、と返す。目の前の彼女の顔は、少しほころんでいた。

彼女がううんと伸びをする。何時間か格闘していた分厚い通信規約の前には、山脈のように辞典や解説書が積み上がっている。手に取った分厚い辞典を引きずり出した元の場所に返し、彼女が立ち上がるのを待つ。

「お腹が空きませんか?」彼女にそう言われ、自分に意識を向ける。わからない、その言葉しか出ない。だが、少なくとも満腹ではない。彼女に手を繋がれ、引きずられるようにしながら昨日の食堂に向かう。

食堂。昨日は机の下に隠れて、残飯を漁っていた。またやらなければならないのか。嫌ではない。むしろ、あの高慢ちきをこえた憎い月人の男に巡り巡って復讐しているようで、少しばかり愉しみですらあった。机の下に隠れ、月鈴に「ここでいい。しばらくすれば残飯が出るから漁る」と声を掛ける。次の瞬間、手をぐい、と引っ張られ机の下から引っ張り出される。彼女の大きな背丈で抱かれ、椅子の上に据え置かれる。

「絶対に動かないでくださいね?また机の下に隠れたらお仕置きですから」そう念を押し、彼女は食事を受け取りに言ってしまう。帰ってきた彼女の手にしている盆には、大盛りの料理が盛られていた。

「どうぞ、食べてください」器用に料理を取り分け、盛り付けてくれる。拘置所で出た中華風の何処か無機質な料理。目の前の濃いだしに香辛料の香ばしい匂いが絡み合う宝石のようにきれいに取り分けられた料理に唾を飲む。あのぐちゃぐちゃにかき混ぜられた残飯と同じ料理とはとても思えない。

「いただきます」手を合わせ、そう唱える。いただくのは目の前の料理だけでなく、彼女の善意であるような気さえする。口にして、咀嚼し、飲み込む。隣から、穏やかな母のような目線が自分を包みこんでくれる。また、料理を口に運ぶ。何回と繰り返されるサイクル。その全てを彼女が穏やかに見守っていてくれた。

食堂を出る際に、後ろから背中を通り越すように声がする。

「見た?あの編入の拘置所のやつ」「地上人相手に料理を分けるなんて穢らわしいわ。頭が地上に染まっちゃったのかしら。拘置所の連中っていかにもエリートですって顔して嫌い」その言葉に文句を言おうと振り返りかけた耳元で、後ろからそっと月鈴に囁かれる。

「いいんです。あの人たちのことは放っておきましょう」その囁きと、背筋に僅かに感じる緊張感に気圧され、振り返るのを止めてそのまま食堂を後にする。

食堂を出たその足で、朝居た射撃場に向かう。先ほどまでしとしとと降っていた小雨がやみ、曇りの空から刺すふんわりとした光が、彼女の着ているジャケットを優しく照らす。出入り口できょろきょろと見咎められないだろうかと首を回すのをくすっと笑われながら、二人で射撃場の中に入る。自分の手にしている小銃の中には一発の弾丸も入っていない。そこら辺に散らされている弾丸の中からへこんだり汚れていないものを選び、銃の中に詰める。

「私達のところではこんなことした瞬間に首が飛びましたよ……」と月鈴の口からこぼれる愚痴。たしかにあそこではこんなたるんだ雰囲気はありませんでしたね、と返し、朝と同じ通り、地面に伏せ、銃を肩に当てる。彼女の助言通り、肩の力を抜く。銃把を引き、照門と照星で狙いを定める。照星の先には円形の的の中心。発砲。乾いた音とともに、的の中心に穴が開く。

「お見事です」彼女がぱちぱちと音を立てて手を叩く。隣で腰を落とし、また肩をおさえてくれる。

「少しだけ焦りが見えました。貴方はただ円形の的を狙っているのではなく、あの事件の真っ最中に聞いた不気味な音の正体を狙っていた」彼女の言葉に虚を突かれる。確かに、自分が狙いをつけて引き金を引いたその一瞬、自覚できるかぎりぎりの焦りがあったような気がする。思い出す命乞いの叫び。ごすごすと石柱を叩き込むような音。首筋をひやりと汗が流れる。月鈴の手が頭を包み、胸元に引き寄せられる。

「大丈夫です。少なくとも、今貴方を狙っている人はだれもいません。大きく息を吸って。はい、そう」彼女の胸の中で大きく息を吸う。先程まで頭を支配していた不気味な想像は雲散霧消し、代わりに少しの気恥ずかしさが湧き上がる。

「……ありがとう」そう消え入りそうな声を返す。顔の表面が熱い。彼女の腕の中から解放され、また大きく息を吸い、銃把を引き、狙いを定めて発砲する。今度は大きく外れて的の隣から土煙が上がる。心の迷いが直接狙いに影響した。気まずい空気が場を支配する。

「……あらら。焦りがきれいに狙いに影響しちゃいましたね」彼女の困ったような声に、思わず笑みがこぼれる。彼女も釣られて、くすくすと笑い声を漏らす。これじゃ訓練どころじゃありませんね、と言われ、弾丸を銃から抜いて、本来あるべき弾丸が整列している所に並べておく。

「戻りましょう。そろそろ帰営しないと、ひどい目に会います」了解です、と返しあの大部屋へと戻るように歩き始める。

周りの空気が硬い。自分は彼女と一緒に、たしかに戻ってきた。月鈴に、少し目を細めてみる癖がありますね?と言われ、こっそり医療室に受診させてくれた。強度の近眼だと言われ、よく的に銃弾がまともに当たったなと嫌な称賛を受けた。だが、それではない。今は、昨日の装備の受領を担当していた玉兎に眼鏡を渡してもらっているところだ。黒い縁が円を描く眼鏡。それを受け取り、掛ける。ものの輪郭がくっきり見え、今までぼやけていた月鈴の顔もしっかりと見える。名のない自分に、輪郭が与えられた。彼女の嬉しそうにほころぶ顔に微笑み返そうとしたその時、怒号が聞こえた。

「馬鹿野郎があっ!」続く殴打音と激しく人が倒れる音。昨日の光景が脳裏に蘇る。記憶そのままの声。気づかれないように静かに振り返る。月鈴が盾となって、自分を覆い隠してくれている。目線の先にはやはりあの月人の男がいた。息を荒げ、黒髪から覗く目は血走っている。酷薄そうだと感じた顔は、高い鼻梁が切れ長の目に張り付いたような、より人間味のない、まるで感情を爆発させた猛獣かのように見えた。その場の全員からの視線に彼は逆上し、

「文句があるならかかってこい!」と怒鳴り散らす。月鈴が自分に囁く。

「大丈夫です。彼は今自分の半径から、人一人分の幅しか見えていません。このまま切り抜けましょう」静かに頷き、大部屋に戻る。

ベッドの上で彼女は自分に申し訳なさそうにこぼす。

「申し訳ありません。寝ている最中に貴方が傷つけられることは、さすがの私でも防ぎきれません」その言葉に自分は頷く。大丈夫だ。自分は地面に這いつくばってでも寝ると返す言葉を遮り、

「ですので、せめて私の寝台の下で寝てください。それなら、露見しても私が言い訳をきかせます」と言葉が続く。呆気にとられた。彼女はどこまで自分のことを庇ってくれるんだ。彼女は自分の顔に気づいたのか、微笑みを返し

「大丈夫です。貴方は心配しないで。……と思いましたけど、いつまでも”あなた”ではいけませんね。今度、名前がないなら合図だけ決めましょう」と手を取ってくれる。

月鈴のベッドの下。まどろみに誘われる意識にかすかに聞こえる金属音。小石の音だろうか、と思う。だが、次は小石じゃないさ、とだけ唱え、眠りにつく。

夢の中だろうか、はっきりしない視界の中で、光と、神をかたどったような造形物が鎮座している。その、ものが流し出す神聖そうな言葉に、物に神性が宿るかね、と思いながら聞いてやる。

「また子が一人去った。魔が這い寄っている。剣を掲げ、鏡にて真を照らせ、さすれば、都は救われる」

胡散臭い言葉だ。そう思いながら、自分の意識はまた暗闇に落ちていった。

作者メッセージ
ブルーアーカイブに続いてまた版権と正面衝突事案を起こしておりました。今度はもののけ姫でした。「曇りなき眼で見定め……」連邦生徒会長の次はアシタカですか。どうしてこうあちこちぶつかりおじさんがごとくぶつかっていくのでしょう。不思議。