東方異聞紺珠伝 第一話
流れ着いた先の空、青い星、そして、邂逅。
長い夢を見ていたような気がする。しかし、とびっきり鮮やかなこの感覚は何だろう?夢特有の浮遊感の中で、自分は必死に答えを探し、もがいて、もがいて、そして。
―頬に何かが触れる。ピチャピチャと音がして、冷たい何かが耳の中に侵入してくる。まぶたを開くと、暗い白い砂浜と青黒い水が横に広がっていた。ザザン、という音とともに、波が身体を押し流す。寒い、寒い!自らの身体の肌を刺すような、痛みにも似た寒さの電気信号が脳に届き、慌てて立ち上がる。しかし、立ち上がるやいなや、バランスを失い再び海へとザブン、と音を立て倒れ込む。
視界がゆらゆらと波打って歪む。水を通して見上げた少し暗い青空には、わずかに歪んだ青い大きな星が目に映る。あれ、と思った。なにか見慣れない、しかし見たことはあるという奇妙な既視感を感じる。そうだ、あれは――――。おかしい、分かる。のに、分からない。混乱する頭の中ではここはどこだろう、というありふれた疑問が頭に浮かんだのがやっとだった。口に無遠慮に侵入してくる塩っけを通り越した苦みさえ感じる水。体温を奪われ、頭の中に霞がかかるように判断力が鈍る中、この危機的な状況にそぐわないあーあというのんきなため息が漏れた。口から出た気泡が、水の中をふわふわと舞い、ぷかりと水面に飛び出て、ぱちんと弾ける。手をついて立ち上がろうとする。ううんという細い声が、自分の口から漏れ出ていることに気づくのには、少しの時間がかかった。
まるで麻酔注射を打たれたかのように力の入らない身体をあらん限りの力で動かし、浜辺を少し歩いて波のかからない場所に移動する。まるで糸が切れた操り人形のように、どさりとその場に崩れ落ちる。ふと我に返り、服を着ていることに気づく。水に濡れ、ピッタリと身体に張り付いた、白いカッターシャツと黒いスラックス。そこにでもいそうな標準的な学生の服装だ。ポケットを探っても、財布どころかコイン一つも出てこない。おかしいな。外に出るときは財布だけは忘れないのに。ポケットに手を突っ込んだまま、ぼんやりと考える。財布の中にはもうすぐ切れる大学の学生証が入っていて、そこには自分の名前が―
じぶ、ん、のなまえ?
心臓が飛び跳ね、内臓が熱くなり何かが込み上げてくる。冷や汗が全身から吹き出し、芯まで冷えた体をさらに冷やす。頭の中の引き出しを片っ端から開け、思い出せる限りの記憶を引き出す。自分の性別、自分の家、今の日付、家族。それらの記憶が霧のように消えていく。頭の中がぐわんぐわんと揺れ動き、耐え難い気持ち悪さに、思わず目を閉じる。そこで気付いた。気づいてしまった。思い出せることが、どんどん減っていく。
自分の性別。男だったか、女だったか。全く思い出せない。
自分の家。ぼんやりと浮かぶその景色は、掴もうとするととたんにふわふわ消えてしまう。
今の日付。何年の、何月の、何日か。季節は。全く判然としない
自分の名前。佐、佐から始まる名前なのは覚えている。佐々木、佐藤、佐竹。そんなところだったか?
自分が何者であるかという情報さえもどんどんと失われていく。
まずい、まずいまずいまずい。今の自分にとって一番大事な記憶を頭に焼き付ける。自分には家族が、父と、母と、弟がいる。父と母の不安げな表情。なぜ?自分には家族が、いる。弟が怯え、自分を拒絶する。違う。自分は正常だ。家族がいる。かぞくの、名前は―。
そこが意識の限界だった。受け入れがたい現実に直面しきれず、思考を他のことへ逸らそうとする。手をつき、立ち上がる。どこへ行こうというのだろう。向かう先は自分でもわからないまま、一歩踏み出した。
浜辺は薄暗いと思っていたが、目が慣れてくると、明るくくっきりと続く砂浜が見通せるようになった。同時に、ある違和感に気づく。潮の香りがしない。海に行けば必ずする、生臭い匂いが全くしない。ただ、海水と同じ濃度の無機質で無味乾燥な塩水の香りが漂っている。おかしいのは、自分の嗅覚か、それともこの世界なのか。この謎が深まる中で、心は少しだけ躍った。
海で冷えた体を温めようと、身体が小刻みに震え、熱を発生させようとしている。濡れた服から水が揮発する際に熱を奪っていくので、恥も外聞もなく服を次々と脱ぎ、下着だけになる。自分の細く、女性のようなスラリとした四肢と、それに見合わないうっすらと割れた腹筋。しかし、これが自分の体だという実感はない。まるで他の肉体に魂が宿っているような感覚だ。そんな声が脳内を反響する。理を外れた現実に直面し、軽い離人症にでも陥っているのだと自覚する。
ぞくぞくと背筋をせり上がってくる寒さに、思わずぶるりと身震いをする。ああ、寒いなと思わず一人ごちる。そもそも、という話だ。目が覚めたら、右も左も分からない場所に横たわっていて、名前も何もかも忘れてしまうなんて全く悲劇の主人公みたいではないか。ここはどこなのか?というか、自分はそもそも誰なのか?そんなありふれた疑問が頭をもたげる。平たい胸板、下着からわずかに確認できる股間の膨らみから、男性であるということをかろうじてわかる程度で、それ以外に分かりそうなことは少なくとも自分の注意力では、見つからない。
やけに印象に残った、空の中にひときわ目を引く大きな青い星―全体をかすれた筆で撫でたかのような白い模様が表面を覆っている―を見上げる。何かの写真ででも見たことがあるのだろうか、どこか懐かしいような不思議な気持ちにさせられる。
どこまでも続く砂浜の先に、ゴマ粒のような動く点を視認する。動物か、人間か。どちらでもいいから、今の自分の孤独を紛らわせる反応があることを期待して、腹の底から声を出す。しかし、冷えて固まった筋肉は収縮しすぎて、思ったほど大きな声は出せず、せいぜい10m先の人物に語りかけるような声しか出なかった。ところが、動く点は声を発した瞬間にピタリと止まり、その後慌ただしく散ってしまった。せっかく見つけた孤独を紛らわせる存在を逃してしまったことに、がっくりと肩を落とす。落とした視線の先に、ブラウンのブーツとスリットの入った赤いスカートの裾が見えた。はっと顔を上げると、目尻がつり上げ怒りの色をその顔に湛えた、若い女性がこちらを睨んでいた。彼女の背が高いので、自然自分は彼女を見上げるような格好になる。喉元に皮膚が突っ張るような感覚を覚える。目に自分に向かって伸びる日本刀の刀身が飛び込む。
「あなたは誰かしら。」と彼女が問う。
それを聞いて、自分は頭が真っ白になる。
「わかりません。」と、たどたどしく答えるのがやっとだ。
「わからない?私は真面目に聞いているのよ?あなたの名前、年齢、性別、出身地、その他諸々……ど忘れするなんてことあるはずがないわ。」彼女は手に持っている日本刀で自分の喉元をさらにすいと刺す。
すっと痛みがすると、じわりと血が皮膚を伝う。
「いえ、本当にわからないのです。」今度ははっきりとした声で答える。
彼女の目をしっかりと見て、気迫に押し負けないように自らの精神を奮い立たせる。その思いが通じたのか、彼女は刀を下ろし、地面に突き刺す。
「ううむ……本当に嘘はついていないのでしょうね?」と念押しのように問われ、頷く。
彼女は面倒な来訪者もあったものだという気色と、もし本当にそうなら気の毒だという同情がその表情に現れていた。
「ついてきなさい。」そう言うと、彼女は刀を鞘に収め、踵を返す。自分はその背中を追って歩き始める。
歩きながら、いくつかの質問をされる。「なにか覚えていることはないのですか?どんなことでもいいのです。小さいときこんなことが好きだった。とか、あまり話したくないかもしれませんが、されると嫌だったこと……とか。」柔和な笑顔を作り、こちらの顔を覗き込むその姿は、先程の厳しい態度とはまるで違う優しさに満ちていた。
「いえ、申し訳ないのですが何も。」自分でも驚くほど淡白な返事だった。
「そうですか……。それは残念です。」彼女は肩を落とす。
その後に自分は「どうしてこんな見ず知らずの自分にこのように優しく接してくれるんですか?」と問うた。
彼女は沈黙する。
しまった。と感じるのにそう時間はかからなかった。
が、彼女は少しの間考えたかと思うと、「なぜでしょうね。本当は……私があなたのような迷い人を案内するようなことは滅多にないの。でも、あなたを見たとき、なにか自分にとても近い雰囲気を感じたの。それがあなたを助けた理由……じゃだめかしら。」とぽつりぽつりと話す。
その顔を覗き込むと、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。自分はその涙に彼女のなにか不安定な、おそらく彼女自身も認識していないであろう欠けた一ピースを見た気がした。
『迷うという状態は人生において最も喜ぶべき瞬間である。なぜならそこに正解は無数にあるのだから』いつかどこかで聞いた格言を自分に言い聞かせるように呟く。
彼女の足がぴたりと止まる。「今なんと?」と問われる。
素直に話すべきか一瞬の逡巡の後に、彼女の様子をうかがう。その顔には、動揺の気色がありありと表れていた。
だが、ここに来てごまかすのもどだい無理な話だろうと、下手を打てば眼の前の女性の協力はほぼ一生乞えなくなることを覚悟し、先程の言葉を繰り返す。
「『迷うという状態は人生において最も喜ぶべき瞬間である。なぜならそこに正解は無数にあるのだから』と。」
あなたはそれについてどう思うのです?」と、矢継ぎ早に質問が飛んで来る。
自分はその言葉は……間違ってはいないと思います。誰から見ても理想的でない、最悪な選択も含めて。」
「それはどういう意味ですか?」自分を問い詰める語気がどんどんと強くなる。先程の自分の失態を呪いつつ、言葉を紡ぐ。
「選択をすることと、理想を追い求めることとはまた別の問題として考えるべきだということです。」
「分からなくはありません。どうしようもない制約の中、選択を迫られることがあることはあるでしょう。しかし、その中で一番良い選択肢を探し、実行すべきなのは当然のことではないのですか?」
「そこに連続性があるのかどうか…だと思います」
「それは?」
「それは、一番良い選択肢を積み重ねた結果が、一番良い結末ではない。という意味ではないでしょうか?」
彼女はその言葉を聞くと、うつむき、黙りこくってしまった。自分の頭を少し超える彼女の顔から、ぽとり、ぽとりと雫が落ちる。声にならない嗚咽が段々と大きくなり、彼女の顔を覆う掌からはひっきりなしに乾く間もなく涙がこぼれる。
しまった、彼女の嫌なところを刺激してしまっただろうかとまんじりともせず彼女を見上げる。
「すみません……あなたを見たときから、ずっと迷っていたのです。私がこのまま放っておいても、あなたの件は『不幸な事故』として処理されて終わるだろうと思っていたのです。実際、そうするべきだったのです。少なくとも私の師はそうするべきだ。と常々言っていました。」彼女の嗚咽の混じった独白に、自分は背筋を走る寒気に襲われた。
この眼の前の女性の機嫌一つで、自らの命運は決まったという事実に、もしそうでなかったらということを考えた。
だがしかし、彼女には、少なくとも、『そうすべきこと』はしてこなかったし、おそらくこれからもしないだろうと感じさせる、人間としての温かみがあった。
彼女は視線に気づくと涙を拭いて気丈に「さぁ、行きましょう。あなたを助けてくれるところがあるのです。」と言って自分の手を引く。
道なき浜から、段々と舗装され、建物で両肩を挟まれた大通りに足元が移り変わると建物から何人かの人が現れる。
朱色が基調となった柱の上に、大きな黄色の瓦屋根が乗り、幾何学的な装飾を所々にあしらった中華宮殿を思わせる建物から、人が指差し、あるいは何人かで集まってこそこそ話をし始める。しかし、自分を見る視線はどれも動物園の猿を見るような蔑視と奇異の目に満ちていた。だが、自分はその視線が当然の、もう向けられ慣れた感覚を不思議に感じていた。
彼女は周りの人物の視線の先が自分に向いていることに気づく。慌てるでもなく自分を手招きし、抱き寄せる。自分はこの者に少しも嫌悪感を抱いていないぞと見せつけるように。
抱き寄せられた身体は、少しこわばっていた。そのまま軽々と持ち上げられ、自分の身体は彼女の腕の中に収まってしまう。いわゆるお姫様抱っこの状態のまま、彼女は眉一つ動かさず、また歩き始める。素肌に触れる身体の暖かさに、瞳が潤む。
「つきましたよ。」と声がする。安心したのか、少し寝てしまったらしい。
ゆっくりと降ろされ、地面に立つ。眼の前には、黄色の本瓦葺の屋根が何個も並び、白色ののっぺりとした壁に囲われた、工場や、悪く言えば収容所を思わせるような、少なくとも人間が通常いるべき場所とは思えないほど簡素で、素寒貧とした構造物が鎮座している。
そして、待ち構えていたかのように、青を基調としたブレザーを着こなした女性たちがずらりと並び、すぐに自分を囲む。肩を掴まれ、あっという間に腕を後ろ手で手錠をかけられる。ひんやりとした金属の感覚が感じられる。これには流石に自分も違和感に気づき、後ろを振り返る。
がちゃり、がちゃりと手錠が軋む音がする。周囲の女性たちが自分を制止させるために手を伸ばし、後ろ手で組んだ腕を強く締め上げる。身体の自由はすぐに無くなり、身じろぎ一つできなくなる。恨みがましい目をしていたに違いない。
女は少し驚いたように目を見開いたが、またすぐに柔和《にゅうわ》な笑顔を作り、「ごめんなさい、これは決まっていることなのです。私の一存でどうにかなることではないの。ごめんなさい、ごめんなさい。」と繰り返し、彼女自身に言い聞かせるように何度も何度も呟く。
目からは涙が少し零れていた。自分はそれを冷めた目で見つめる。裏切り者め!今までの優しさはすべてこのための演技だったのだな!と、自分の目線が槍のように彼女の目を刺す。
瞳孔がふっと開き、彼女の口が動く。「私の名前は、綿月依姫《わたつきのよりひめ》!この月の都の防衛軍の司令官をしています!何かあれば、私の名前を出してください!きっと良いことが起きるはずです!」その声が、連行される瞬間に、やけに心に焼き付いた言葉だった。
自分は、手錠をかけられたまま、無言で連行される。自分の肩を抑え、暴れないようにと軽く拘束する周囲の女性たちの視線が、まるで自分を捕らえた獲物を見つめるかのように鋭く、また好奇心に満ちあふれ、痛いように自分に刺さる。
彼女たちの服装は、青を基調としたブレザーで統一されており、どこか軍隊のようなひんやりとした冷酷さを感じさせる。自分の心臓は、驚くべき速度で拍動を繰り返し、切れ目なく鼓膜を震わせる。
作者メッセージ
この小説を執筆したのがちょうど一年ほど前になりまして、そのころは気づかなかった様々な瑕疵に頭を悩ませています。中盤の依姫との問答あたりは自分で見ていて「ブルアカ風味強めだなぁ」と思っていました。その頃ブルーアーカイブなんてブの字も知らなかったのですが。どうも完全オリジナルのはずなのに、何らかの表現と似通るのはある種宿命のようです。見通しとしましては、今のところ第5話までは執筆が完了しているので、加筆修正ののち早めに公開できればと思います。