東方異聞紺珠伝 第二話
建物の中に足を踏み入れた瞬間、冷たい空気が肌を刺した。
薄暗い廊下がどこまでも続き、壁には白いペンキが無機質に塗られている。ところどころ剥がれ落ちた箇所が、まるで古傷のように浮かび上がっていた。
音はない。ただ、自分の足音だけが、緑色のコンクリート床に乾いた反響を返す。
歩かされた先にある、重い扉が開かれた。
中は広い一室。中央に長いテーブル、その周囲に数人の女性たちが座っている。全員が同じ青を基調とした制服を着ており、背筋を伸ばした姿勢は軍人のように整然としていた。
だが、最初に目を奪ったのは――彼女たちの頭頂部に生えた、長く垂れた耳だった。
ウサギのような耳が、髪の上に自然に揺れている。
現実感が、音を立てて崩れた。
「こちらへ」
最も近くにいた女性が、無表情のまま椅子を示す。彼(女)?らの示す、ピリピリとした雰囲気が肌を刺す。
抵抗する余地はないだろう。両手首にはまだ金属の手錠がかかっている。
腰を下ろすと、周囲の視線が一斉に突き刺さった。心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
――何だ、ここは。
――俺は、誰だ?
問いは、答えを持たないまま胸の奥で渦を巻く。
「まず、最初にお伝えします」
正面に座る女性が、冷ややかな声で口を開いた。
「私たちは、あなたに尋問を行います。あなたが何者で、どこから来たのかを明らかにするため。そして、必要であれば帰還の支援を行うためです」
帰還――? その言葉に、かすかな希望が灯る。しかし同時に、背筋を冷たいものが走った。
本当に帰れるのか? それとも――「飼い殺し…。ってわけか」ぼそり、とつぶやく。
「質問に答えてください。あなたは何者ですか?」
その目には、疑念と警戒、そしてわずかな敵意が混じっていた。
口を開こうとした瞬間、言葉が揺れて消える。
――何も、思い出せない。
名前も、過去も、すべてが白い靄に覆われている。
「……わかるかい。そんなもん。」
かろうじて絞り出した声は、情けないほど小さかった。
空気が張り詰める。
「答えなさい」
女性の声が鋭さを増す。鬼気迫る声に、身の危険を感じる。
思わず後ずさり、椅子ががちゃんと音を立てて倒れた。冷たい床の感触が、現実を突きつける。
――だが、何も出てこない。
椅子を立て直され、再び座らされる。
そのとき、隣の女性が小さく息を吐き、柔らかな声で言った。
「私たちは、あなたを助けたいと思っています」
その目には、確かに同情の色があった。
だが――信じていいのか? この手錠を外さないまま、助けたいだと?
思わず、はっと、乾いた笑いが漏れた。
「……記憶が戻るまで、ここで話をしましょう」
左隣の女性が、落ち着いた声で続ける。
「まずは、名前を教えてください」
――名前。
頭を探る。だが、何もない。随分と酷な話だ。
ただ、遠い波音と、冷たい水の感触だけが蘇る。
「……海」
思わず口をついて出た言葉に、女性たちがわずかに反応する。
「海? それは、あなたが最初に目覚めた場所ですか?」
こくりと頷く。
波の音、冷たい水、そして――誰かの怒りに満ちた顔。
胸の奥がざわつく。何か、大切なことを忘れている。
「他には?」
必死に考える。
――家族。父と母、そして弟。不安げな顔。
「……家族がいます。父と母、それに弟」
女性たちが一斉にメモを取る音が響く。
「不安げな顔をしていました。それ以外は……思い出せません」
質問は続く。だが、答えは霧の中だ。
「ご協力、感謝します。あなたが記憶を取り戻し、元いた場所に帰れるよう、私たちは全力を尽くします。それまで、ここで過ごしていただきます」
――結局、監禁か。
心の中で毒づきながらも、抵抗する力は残っていなかった。
カチリ、と音を立てて手錠が外される。
差し出されたのは、白いカッターシャツと黒いスラックス――新品のように整えられた服。繊維の一本まで整えたかのようだ。
なぜだろう。まるで、最初からこうなることが決まっていたかのように思えた。
「早くしてくださるとうれしいのですが。」
女性の声に、無言で頷く。内心、このせっかちに毒づいたのは内緒だ。
――どこへ連れて行かれるのか。
その答えを知るのは、もう少し先のことだった。
作者メッセージ
全年齢版となった影響で色々表現がナーフされています。ですが、主人公の離人症的な態度は変わっていません。現実性なんて筆者の私にしても持てないと思います。[執筆小話]執筆およびページ設計につかっているのは、windows標準のメモ帳です。お手軽。wordでやろうと思ったら、CSSがめちゃくちゃになって激萎えしたのはいい思い出。