東方異聞紺珠伝 第四話
看守の玉兎との一悶着から数日が経った。基本的にここでの暮らしの日課である取り調べを受けたあとは、独房に戻り一人何をするでもなく時間を過ごすだけだ。食事などはあの優しい玉兎が合間を見つけて世話を焼いてくれ、だいぶこの暮らしにも慣れた。それでも他の玉兎はかなりそっけない対応だが、あのひどい玉兎よりかはましだろうと思うと少しは気分が晴れた。
ぎい、と小さな、生物の鳴き声が聞こえた気がした。おや、と思い独房の前に立っている看守の玉兎に尋ねる。
「この建物の近くではなにか生き物を飼っていたりするのか?」
「いえ、そんな事はありませんが。なぜそのように?」と逆に質問を返される。なぜ、と問われ自分はなに、鳴き声がしたような気がしてね。と頬をひっかき、作り笑いを浮かべる。すると目の前の彼女は気の毒に、記憶喪失の上に幻聴まで出始めたかという哀れみの目線を向けてくる。よけいなお世話だ。
次の瞬間。
耳をつんざく警報音が、静かな独房の空気を切り裂く。
「...何の音だ?」看守の玉兎も顔を青くし、落ち着かない様子で独房の前をウロウロとし始める。
「地上人!私は状況を確認しに行く。少しの間ここを離れるが、逃げ出そうなんて考えるなよ!」と自分に怒鳴りつけると駆け出していってしまう。廊下を行き来する玉兎たちは皆顔を真っ青にしながら右に左に駆け抜ける。その中の何人かは木製のストックの古めかしい歩兵銃を携えている。
一体何が起こっているのだろうか。眼の前の異様な光景を信じられない思いで見つめる。鉄格子を掴み、目の前の廊下を凝視する。
「警戒、警戒、警戒、総員緊急配備。」無機質な機械音声が繰り返される。
鉄格子が足音によってわずかに震えるのが分かる。だが、その振動は収まるどころか更に大きくなっていく。慌ただしい物音に混じって、声にならない叫びと、悲鳴がかすかに聞こえる。すると、先程まで廊下の両方向に入り混じっていた玉兎の流れが、片側によって濁流のように通り過ぎる。まるで、押し寄せるなにかから逃げ出すように。そして、その人の流れの隙間から、ごく小さな虫と思しき生物の塊がぶんぶんと音を立てながら通り過ぎる。その生物のいくつかは、自分の独房の中に入り込み、身体を宿り木にして羽を休めている。その中の一匹が指を這い、腕を上がってくる。
ぎょっとした。
その虫は本体の部分は艶のある甲殻に覆われた一般的な昆虫の様態だが、その四足は人間の四肢そのものであり、背中には目玉がむき出しになっており、ぎょろぎょろと周りを見回している。気味が悪い、と思った。こんなもの到底自然の造形ではありえない。こんな異形の生物を遺伝子いじくり回して作るやつの顔が見てみたい。這い上がってくるそれを指に誘導し、独房の外に離す。するとぶうんと音を立てて飛び、玉兎達が逃げていった方向へと飛んでいった。
ふと、足元を見ると先程まで羽を休めていた生物は力尽き、床に自分の周りに円を書きながらその死体を横たえている。
「―――――ッ!」
「―――――で!」
悲鳴と絶叫が廊下のすぐ隣からする。ちょうど壁に遮られて分からない「そこ」では何が起きているのか。気分が悪くなるような想像が頭を支配し、背筋が凍る。クチャクチャと肉塊を弄ぶような音が耳に張り付く。ぬっと、血濡れた生物の部位が目に飛び込む。背筋がよだつ。必死に息を押し殺し、気配を消す。吐き気を催す臭気。悲鳴。口からまろび出そうな絶叫を必死に飲み込み、嵐が過ぎ去るのを待つ。恐ろしく重量感を感じる足音が過ぎ去ったことを確認して、そこではじめて気づく。あのいつも食事の世話を焼いてくれる看守が、独房の鍵を開け、待っていてくれた。落ち着かせるように手を添えて、落ち着いた声で避難を促される。
「ここは危険です。私が誘導をしますので、ついてきてください」こくりとうなづき、立ち上がる。彼女が自分の手を取る。
「何が起こっているのか…」思わず口から一人ごちる。
「詳しいことは後で話します。今は急いでここから出ましょう」彼女の自分を取る手の力が一層強くなった気がした。
彼女が先導して、安全を確認すると、サイレンが響き渡る通路を駆け出す。非常灯によって染められた壁の赤色は、血液のそれか見分けがつかなかった。
がらんどうの通路を駆け抜けながら、彼女が説明を始める。
「この建物の外から何者かが侵入したようです。おそらく、壁を突き破って。でなければ、こんな非常事態にはなっていません。」それなら、目の前を通り過ぎていった影も説明がつく。
「止まって!目を閉じて、耳をふさいで伏せて!」突然の指示に慌てふためきながらも、半ば床に飛び込むようにして伏せこむ。
甲高い金属音が響いた後、瞼を焼く閃光と、爆発音が響き渡る。
「今のうちに行きます!」また手を引かれ、駆け出す。
「今のは…」
「古典的な制圧用の爆弾です。とにかく、急ぎましょう」その重々しい口調からはもし遅れたらどうなるか、言外に伝えようとしているような気がしてならなかった。
通路を閉じ切る非常扉は、流動性すら感じさせる程にひがみ、血なまぐさい空気を循環させ続けている。重厚な壁面は巨大な鉄球を撃ち込まれたかのようにへこみ、ひび割れ、もうもうと煙を湧き立てる。そう遠くもない、壁の2.3枚となりあたりから、ゴスゴスと石柱を打ち込むような低い振動がやってくる。気配こそ感じないが、そこには確かに、ナニカ、がいることは確からしかった。
「もうすぐ外縁区画です。見通しは良くなりますが、逆に言えば一たび危機に陥れば、容易には逃げ切ることはできません。はぐれないよう、気をつけて」
やれ、危険か。と内心彼女(?)らの徹底した秘密主義に辟易する。素直に、あの残虐な生物に追いかけられ、捕まったら四肢と胴体が泣き別れ、とでも言えば良い様な気もするのだが。彼女の手を取り、再び駆け出す。
建屋と外部を遮断するひときわ重厚な閉鎖隔壁は、跡形もなく吹き飛ばされ、その残骸は赤いプールにぷかぷかと浮かんでいた。浮かんでいた隔壁の下にあるモノのことを考えると、思わず気分が悪くなる。
見上げると、やたらにぎらぎらと輝く星空の中に、青くにじむ光。
「……どうやら、質の悪い映画撮影に付き合わされた訳でもないようだ」
「だから、そう言っています。無事に帰りたいのなら、今は必死に逃げるしかありません」
「おい、地上人!」背後からの声。
「生きていたのか。どこかで押し煎餅か、ウェルダンなハンブルグステーキにでもなっているかと思ったが」
「地上人の下賤な食事に興味なぞ無い。だが、一つ言っておく。そちらの道には、既に対処不可能な量の侵入物が確認されている。生き残りたいのなら、自分で考えるんだな」
そういって、その玉兎は、自分たちを押しのけ、駆け出して行った。
「礼は言わない。言葉ではなく、行動で示して見せる」自分は手を引かれ、駆け出す中、背後の人物にそう告げた。
青い光が、影を作る。薄い雲が、明け方の空に垂れ込み始めていた。次第に周りに玉兎たちが集まり始める。皆、大抵どこか血を流していた。鳴動を続けていた警報が、ぶつりと音を立てて途切れる。
夜明けが迫ろうとしていた。
作者メッセージ
第三話、第五話と同時投稿となります。執筆ソフトが変わり、今はvscodeでコードを編集しています。サイト側の瑕疵なのか悩まされた矢印の位置問題も収まってくれるとよいのですが。